2011.04.06
江森丈晃『宅録〜D.I.Y.ミュージック・ディスクガイド HOMEMADE MUSIC』
Emma Salokoski & Ilmiliekki Quartet『Vi Salde Vara Hemman』
大変遅くなりましたが、告知です。
通称『HOMEMADE MUSIC』。正式名称『宅録〜D.I.Y.ミュージック・ディスクガイド HOMEMADE MUSIC』。ようやく発売になりました。使った紙は7種。インクは10種。震災前の世界で制作され、震災後の店頭に並んで1週間あまりの本です。僕は企画・編集・デザイン・写真のほぼすべてを担当しました。原稿も書いています。要は、四六版変形・264Pという規模のミニコミだかファンジンだかを、キーボードとモニターというインターフェイスを通してホチキス止めしたり切り貼りしていたようなものです。
しかしやりきった甲斐はありました。謙遜しなくともよいぐらいには好評で、今現在、どこも品薄となっているようです。お近くの書店にない場合は、ぜひともレジにて注文して頂ければと思います。時間がかかったぶん、重版がないとマズいのです。これは懇願です。タイプによる土下座です。
……と、ここまで書いていたのがきのうの深夜。そこでずいぶんと会っていなかった友人が電話をくれ、そのまま話し込んでしまったため、書き終えることができなかったのですが、そのかわり、彼との会話から、改めて自分の音楽に対する姿勢のようなものを発見することになったので、ここに残してみたいと思います。これは脱線のようですが、脱線ではありません。
昨晩は、主にジャズの話をしていました。電話の用件は「労作買ったよー」だったのですが、ちょうど自分の部屋ではAl Cohn & Zoot Simの『Either Way』が、彼の部屋では中山英二『アヤのサンバ』がかかっていたのです。そのとき彼がふいに、Emma Salokoski & Ilmiliekki Quartetの話題……というか、その長い長いグループ名を、あまりにもスマートに発音してみせたことに、自分の目は見開かれ、気持ちは「ハッ」という音を立てました。
確かに彼らの2009年作『Vi Salde Vara Hemman』は素晴らしく、僕も繰り返し聴きました。しかし自分はそのアルバムを、「黒くて暗くてアーティスト名だかタイトルだかが2ラインに渡っててブレアウィッチが出そうな写真のやつ」としか認識していなかったので、好きなアルバムのアーティスト名というのを、そのとき初めて「音として耳にする」ということが起きたわけです。
もちろん世界各地のGLOCAL BEATSがなんのストレスもなく聴けてしまう現在ですから、そういう人は多いと思います。見慣れない発音記号がある以上、局地的文盲になっている人は少なくないでしょう。しかし自分の場合は少し極端かもしれません。
たとえばyoga'n'antsのアルバムを作っていた頃、毎晩のように夢中で聴きまくっていたアルゼンチン・ロックの流通が、突如止まったことがありました。理由は忘れました。ディストリビューターが潰れたせいかもしれません。そのとき自分が何をしたかといえば、アルゼンチンという国を、ないことにしてしまいました。新譜が入ってこない以上、アルゼンチンのアーティストたちを、頭で殺すことにしたのです。自宅のCDはすべてが遺作となり、新しいものを聴きたい欲求は消え去りました。ハハハハハ。笑いごとではありません。
さて、はたしてそんな人間が、少なからず「案内」であるディスクガイドのようなものを作っていいのでしょうか?
そんな自問自答に対し、昨晩の電話の「エマサロコスキーアンドイルミリエッキクァルテット」という発音は、すごく開けた道を開いてくれました。
答えはイエス。もちろん作ってよかったのです。だから出たのです。
というか、むしろ、そもそも、『HOMEMADE MUSIC』という本は、そんな自問自答の正当化により編集されたようなところがあったのだ、ということに(一瞬で)気づかされてしまったのです。
以下、その「正当化」へのエナジーを、さらにデイリーな表現を使って説明してみます。それはたぶん……
「野菜は大好きだけど、その産地にはこだわる意味がない、と思っている」
……ということだと思います。
珍しい色、形、味の野菜があれば、食べてみたい。興味が沸く。しかしその興味は、あくまで味に対してであり、そのルーツには、気持ちがいかないのです。
食べるということは、自分の舌や腹を満足させるための行為ですから、作った人の顔など知らなくともよい、というのが僕の本音です。農家の人も、精魂を込めさえすれど、ニンジンの発色で自分を表現しているわけではないでしょう。もちろん風土や無農薬への深い理解の元に野菜を楽しむことができれば、味は変わるかもしれません。でも、考えてもみましょう。同じものなのに、変わるというのはおかしくありませんか?
僕にとっての音楽とは、まさに野菜のようなもの。毎日摂取する/したいもので、空腹を満たすこと同じく、耳さえいっぱいになれば、それで満足なのだという気持ちが強いのです。
しかしこの世の中の音楽には、必ず産地や生産者の「情報」がついてきます。
録音年月日やパーソネル、はたまたシミラー・アーティストを羅列することでしか伝えることのできない(一部の)ライターやブロガーと、ライターやブロガー的な思考に、毒されすぎていると感じます。ただ単に自分が楽しむだけの音楽に、なぜそんな情報が必要なのでしょう? 誰に採点されるわけでもないのに。
繰り返しになりますが、そんな人が作った(あろうことか)ディスクガイドが、『HOMEMADE MUSIC』という本です。ですから、この本が従来のディスクガイドと違うのは、当たり前のことなのです。
もちろんディスクガイドの体裁を保つため、必要最低限の情報というのはフォローしました。英文をチマチマと調べました。ハッキリ言って苦痛でしたし、正直なところ、僕にとっては、書いた途端に忘れてもよいようなことばかりだったと思います。
しかし、この本の伝えたいことが、そういった「情報」にないということは、どんなに勘の悪い人でも、10分も読み進めてもらえれば、気づいてもらえるはずです。
ディスクガイドの役目が「情報」にないとしたら、どこにあるのでしょう。
それはやはり、「本質」だと思います。この本にある情報は、そのほとんどが、本質への助走のようなものです。
それでは「本質」とはなんでしょう。それはもちろん、本を読破した人の人生や人生観に、どのぐらい関与できるか、どのぐらい影響を残せるかということです。テキストが生み出す熱量といってもいいかもしれません。
それがないディスクガイドは、この時代、もはや成立しないと考えます。なぜなら「音そのもの」はネットを探せばいくらでも転がっているのですから、実際に聴きながら好みのものを探すのがいちばん早いわけで、さきほどの野菜と同じく、情報があってもなくても音楽(の味)が変わらないのであれば、情報などいらないのです。一目惚れの結婚に、なぜ仲人が入ってくるのかということです。
さらに書けば、情報に左右されることで音楽(の味)が変わることのない「自分なりの耳」さえあれば、アーティスト名など読めなくともよいということです。
僕はそんなヤケクソ的盛況が生み出した、音楽本来のプリミティヴな楽しみというものを、無意識ながらに感じていて(なんせ音楽に対して何かを「考える」ということを放棄していますから)、それでも音楽の仕事がしたい(=楽しく食べたい)ため、音楽の本を出す意味や意義というのを探していたのでしょう。
それが約8ヶ月の製作期間を経て、やはり無意識に煮詰められ、『HOMEMADE MUSIC』という本にまとめられた、ということなのだと思います。
リアルに繰り返しになりますが、そんな人がつくった(あろうことか)ディスクガイドが、『HOMEMADE MUSIC』という本です。ですから、この本が従来のディスクガイドと違うのは、当たり前のことなのです。
もっとも大きな違いは、読後感。そして「ゴールの場所の設定」だと自負しています。
従来のディスクガイドは、掲載されている盤を知り、所有し、聴くことが「ゴール」となっていたように思いますが、『HOMEMADE MUSIC』の場合、盤など聴かなくてもよいのです。テキストは原音から遊離し、孤立しています。なおかつそれらの集合体は、それを読破した人の「スタート」になるような編集に支えられています。つまりは「この盤がオススメだよ」ということ以上に、「こんな考え方もあるよ」「こんなやり方もあるよ」という部分に、重きを置いているのです。
テキストの中になど、ゴールはないのです。
執筆者であり、12Pに及ぶ「初回限定500Ltd.時代のパッケージング」にも出席頂いたデザイナーの千原航さんからは、「すぐやれ今やれと言ってるような、背中押し本」と。
また、僕の信頼する編集者であり旧友の浜田淳くんからは、「これで始まらなかったら、もうなにも始まらんな。」というメールが届いています。
宅録とD.I.Y.。テーマは古びたものですが、読後感は最高に新しいはずです。ぜひとも手にとってみてください。
長い長い宣伝でした。
※最後にこれらの見解はあくまで江森個人のものであり、参加ライター陣の総意ではないことを記しておきます。 |